蒙古vs骨嵬(クガイ)戦争(詳細はアイヌ年表へ)
樺太南部には樺太アイヌ、中部にウィルタ、間宮海峡から北部にかけてニブフ(ギリヤーク)などの北方先住民族が狩猟、漁労、交易を営んでいた。
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1264年 黒竜江河口に住む吉里迷(ギレミ)人、クビライに対し骨嵬(クガイ)が毎年のように侵入してくると訴える。吉里迷はギリヤーク(ニヴフ)族、骨嵬(苦夷とも)はアイヌ族を指しているとされる。
1264年 蒙古帝国(のちの元)が3000人の軍勢を樺太(古桂)に派兵し、住民を制圧。朝貢を命じる。アイヌ人の侵略に対する対応措置とされる。
1273年 塔匣剌(タヒラ)が征東招討司に任命され、アイヌ攻撃を計画したが、賽哥小海(間宮海峡)の結氷がなく、実施されずに終わる。
1274年 文永の役。元の日本襲来。
1281年 弘安の役。元の日本襲来。
1284年 樺太の武装集団「骨嵬」(くがい)が元に反乱を起こす。元は聶古帯(ニクタイ)を征東招討司に任じ、骨嵬征伐が20年ぶりに実行される。
1285年 征東招討司塔塔児帯(タタルタイ)・楊兀魯帯(ウロタイ)が骨嵬を攻撃。
1286年 元が三度目の骨嵬攻撃。「兵万人・船千艘」を動員したという。
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この結果、骨嵬の軍勢は四散。元朝は、樺太南端に前進基地として「果夥(クオフオ)」城を設ける。 西能登呂岬に遺跡が残る白主土城は、アイヌ伝統のチャシとはかなり構造の違う方形土城で中国長城伝統の版築の技法が使われており、ここで言う「果夥」であった可能性がある。(中村和之=ウィキペディア)
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1297年 ニヴフ人、元朝に対し、アイヌが海を渡ってニヴフの打鷹人を捕虜にしようとしているとの訴え。
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中村はこれについて「日本では鷲羽は、アイヌ交易の代表品として捉えられており、アイヌは鷹羽・鷲羽流通の掌握を狙っていた」と説明している。
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1297年5月 骨嵬が黒龍江流域に侵攻。キジ湖付近で元と交戦する。
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ある文献では次の記載。樺太アイヌで骨蘶の屋英(わいん)、ギリヤーク人の作った船に乗り、沿海州に渡って乱を起こす。また骨蘶の酋長フレンクは北樺太西海岸の果移(カター)から海を渡って攻め込む。いずれも元軍に破られた。 海保嶺夫=ウィキペディアでは、蝦夷沙汰職・蝦夷代官安藤氏が蝦夷(樺太アイヌ)を率いて闘ったとある。これらの記載は?
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1308年 「骨嵬」が元に降伏。アイヌの玉善奴・瓦英らが、ニヴフの多伸奴・亦吉奴らを仲介として、毛皮の朝貢を条件に元朝への服属を申し入れる。
以上の経過については、かなり怪しいものも混在している可能性がある。取り扱いに注意が必要。
1411年 元に代わり明が成立。黒竜江下流域まで進出。樺太をふくむ3箇所に衛(役所)を設置し、アイヌ民族と交易する。
松前藩の進出
1485年 樺太アイヌの首長、武田信広に銅雀台の瓦硯を献じ配下となる。(武田信広はこの時点で蝦夷管領・安東氏の代官にすぎなかったが、すでに実権を握っていたようである)
1590年 信広五代の孫の蠣崎慶広、太閤秀吉に会い親藩に加えられ、樺太を含む蝦夷地主として待遇された。
1593年 蠣崎慶広、秀吉から蝦夷地の支配権を許される。
1599年 蠣崎慶広、家康から蝦
夷地の統治に関する誓書を受ける。以後姓を松前と改める。
(この辺りはアイヌ年表参照のこと)
1602年 イエズス会宣教師マテオ・リッチが北京で作った世界図。日本でこれを基にマテオ・リッチ系世界図が作られた。図柄的には北海道だが、書かれている地名は誤っている。樺太は存在しない。

1603年 松前藩(松前公広)、宗谷に役宅を設置。利尻・礼文・樺太を司さどる。
1635年(寛永12) 松前藩、村上掃部左衛門を樺太巡察(島巡り)に派遣。(サハリン・歴史関連年表
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この探検については文献により多少の異同がある。「村上掃部左衛門」については「佐藤嘉茂左衛門」との表記がある。ただし
佐藤説では「蠣崎蔵人」(蠣崎家の始祖)が同行したとなっており、これは誤情報であろう。最初の上陸地は西能登呂岬ウッシャムである。西能登呂岬から亜庭
湾沿いに10キロほど北上したあたりに内砂浜という集落がある。まぁその辺りであろう。 ここで越年し、翌年に探検をこなったのは甲道庄左衛門であり、藩幹部の「村上掃部左衛門」は小便だけして帰ったのだろう。
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1636年 甲道がウッシャムで越年。翌年多来加湖に至る。原文では“足香”とあてられているようである。
この後50,79,89年の数次にわたり調査隊が送られる。松前藩は江戸幕府に自藩の領土として樺太を報告。
1643年 オランダの航海者メルテン・ド・フリースが樺太を探検。クシュンコタンに上陸し敷香、北知床岬まで到達。宗谷海峡は発見できず、北海道と陸続きと報告する。
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久春古丹は後の大泊であり、その一部をなす。1875年よりコルサコフと改称した。1908年、日本領となり樺太府が置かれた後、大泊と改称された。ただしそれと同時に樺太府は豊原に移された。したがってこの年表で大泊の名を使用する意味はない。
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1644年 清が中国を統一。アムール川流域とサハリンの北部を支配下におく。
現地に毛皮貢納を義務付ける。
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清朝は住民を戸(ボー)、村(ガシャン)、氏族(ハラ)という単位で組織し、1戸当たり毎年1枚のクロテンの毛皮を貢納さ
せるとともに、貢納者には綿織物の衣類や反物などを恩賞として与えました。また、集落や氏族には首長を任じ、彼らには特別に毎年絹製の満洲官吏の制服を1
式と綿織物などを恩賞として与えました。そのような支配体制がアムールやサハリンの住民の交易活動を大いに活性化させたのです。(佐々木史郎講演)
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1644年 江戸幕府が「正保御国絵図」を作成。樺太が北海道の北の大きな島として記載されている。東には千島列島が描かれる。

1658年 ロシア黒龍江総督パシコフ、ネルチンスクを建設。武力により版図を拡大。
1669年 松前船、サハリン島に至り、エブリコ(薬用きのこ)を積む。
1679年 松前藩の穴陣屋が久春古丹に設けられ、日本の漁場としての開拓が始まる。ただしこの陣屋は5年ほどで閉鎖される。
1683年 清朝軍、黒龍江沿岸のロシアの要塞を襲撃。
1685年 松前藩、家臣の知行地として宗谷に商場(宗谷場所)を設置。樺太の仕切りが委ねられる。宗谷場所は来航する樺太アイヌと交易を行う。
1689年 清がロシアを撃退。ネルチンスク条約締結。この後、黒竜江下流に進出した清軍は、樺太の住民にも朝貢をもとめる。
1689年 松前藩士、蠣崎伝右衛門が樺太の地図を作成。
1700年 松前藩、樺太を含む蝦夷地の地名を記した松前島郷帳を作成し、幕府に提出。
1709年 清国、イエズス会修道士に命じて清国版図を作成。修道士は黒竜江河口対岸に島があると聞き、現地民の通称であるサハリン・ウラ・アンガ・ハタと記した。
1715年 幕府に対し、松前藩主は「十州島、樺太、千島列島、勘察加」は松前藩領と報告。
1715年 医師寺島良安、「和漢三才図会」で、カラフトを大陸の一部として描く。
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つまり、黒竜江河口付近に、間宮海峡を隔ててサハリン島があり、北海道の北に大陸と繋がる樺太(半島)があるという二つの認識が併存していたことになる。この誤解はかなり後まで続いていく。したがって明治の領有権放棄までについては「樺太」との記載がふさわしい。
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1732年 清国、樺太を6つのハラ(氏族)に編成し、毛皮貢納民とする。
1739年 坂倉源次郎が『北海随筆』を著す。この中に「山丹」が初めて登場。この頃から山丹交易が盛んとなる。山丹は山靼、山旦とも表現され、間宮海峡を挟む樺太および黒竜江下流地域を指す。
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サハリン・アイヌの人々は中国製の絹織物(いわゆる蝦夷錦)やガラス玉、ワシやタカの尾羽を持ち込んだ。それらは大陸からやってくる「サンタン人」と呼ばれる人々から手に入れたものだった。 松前藩は密貿易の嫌疑を避けるため,山丹人との直接交易は行わなかった。(佐々木史郎講演)
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1742年 清の役人、樺太アイヌが清商人から略奪をはたらいたとし、樺太アイヌを取り締まったとの記録。
1745年 ロシア帝国全図が作成される。(これでは樺太・千島がロシアのものと言われても仕方ない)

1751年 宗谷場所詰の松前藩士加藤嘉兵衛、藩主の命を受け、海鼠(ナマコ)漁場調査と交易のため白主に出向く。翌年、久春古丹など3カ所に漁場を開く。(森勇二のブログ(古文書学習を中心に))

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「北海道・樺太アイヌ語地名サイト カムイミンタラ」から部分拡大。もともとは「樺太庁発行樺太要覧」(昭和2年発行)より転載したもののようである。
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明治38年の地図。左図より約30年前。日本領となってまもなくの頃なので、漢字もあてられていない。
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1752年 ソウヤ場所から樺太場所が分立。(これは目下のところ疑問)
1772年 松前藩、城下の商人で宗谷場所請負人村山伝兵衛に命じて、交易と漁法の指導のため、二隻の船を樺太に派遣。
1777年 松前藩、藩士新井田隆助を派遣、樺太南部の検分、測量に当たらせる。
1785年7月 幕府、蝦夷地調査隊を派遣。普請役の庵原弥六は、宗谷よりシラヌシに渡海。西はタラントマリ(多蘭泊)、東はシレトコに至る。
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白主はロシア領となってからはさびれてしまった。日露戦争後は南白主と呼ばれる一集落に過ぎなかった。白主をふくむ好仁村の役場は南名好(アイヌ名ナヤシ)に置かれた。
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9月 林子平、「三国通覧図説」で、欧州の地図を元に、樺太を東韃靼の地つづきである半島と断定。これとは別に「サカリン」を島に描く。
1786年
4月 幕府蝦夷地巡検使の東班(山口、青島、最上)と西班(庵原、佐藤)が松前を出発。
6月 西班、宗谷に至る。庵原は樺太に渡り、最初の本格的な樺太調査。白主を起点に東岸は約三十里、西岸は約六十里ほど検分。
1787年
3月 樺太から戻り宗谷で越年中の庵原が病死。
5月 庵原の後継となった大石逸平が樺太に入る。
一隊は、ノトロに着岸し、同日シラヌシに至る。 タラントマリで、山丹人からサハリン奥地の様子を聴取。彼らはアムール下流キジ湖畔から交易のため来島していた。さらにナヨロに至り、現地人から地境・行程を聴取する。さらに久春内に至る。 大石は、西はナツコ、東はタライカに至るまでの多数の地名と土地の特徴を記録した。 |
1787年 フランス人ドウ・ラ・ペルーズ、中国から樺太探検に入る。黄海から日本海と北上し、樺太西岸に達する。その後海岸沿いに北進。海が浅くなり座礁の心配で船を反転させて引き返す。さらに宗谷海峡をぬけてカムチャツカへ向かう。
(ロシアでは宗谷海峡をラ・ベルーズ海峡と呼ぶ)
1790年
5月 松前藩、幹部の松前平角らを白主に派遣。
西地コタントル、東地シレトコ(中知床岬)まで調査。ナヨロ、トンナイで山丹人、ロシア人から山丹のみならず、吉林、北京の状況を聴取する。
白主に商場(会所)を設置。藩士が駐在するカラフト場所が開始される。幕府も勤番所を置く。またシラヌシ、ツンナイに番屋、トンナイ、クシュンコタンに荷物小屋を設置。春から秋までのあいだ、勤番を派遣した。
村山伝兵衛がカラフト場所請負人となる。樺太アイヌとの交易を拡大。いっぽう山丹人との直接接触は避けられる。
6月 最上徳内、「蝦夷国風俗人情之沙汰」を発表。(のち、改定して「蝦夷草紙」)カラフトを「樺太」とし1つの島に描く。
1792年 第二回目の幕府調査。最上徳内らが派遣される。白主を起点に、西はクシュンナイ、東はトウブツまで検分。山丹人、ロシア人から樺太北部、山丹、満州、ロシアの地理を尋問。
1797年 板垣豊四郎、カラフト場所の支配人となるが、経営は数年で失敗に終わる。
1797年 村上島之丞、「蝦夷見聞記」を著す。カラフトを半島とし、ほかに「サカレン島」を描く。
1798年 幕府、東蝦夷地(北海道太平洋岸および千島)を公議御料(幕府直轄領)とする。樺太は松前藩の手に残される。
1799年1月 幕府、松平忠明を蝦夷地取締御用掛に任命し、蝦夷地の開拓を命じた。
1799年 間宮林蔵、村上島之允の従者として初めて蝦夷地に渡る。函館において伊能忠敬と師弟の約を結ぶ。翌年、普請役の雇となり蝦夷各地の測量に従事。
1800年
1800年 松前藩、カラフト経営を藩士の手から取り上げ、領主手捌(直轄)とする。摂州兵庫津の商人柴屋長太夫が仕入れ方を担当。
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この頃から樺太経営の中心は久春古丹に移動したようだ。久春古丹には勤番設所や運上屋のほか, 多数の倉庫や番屋があり, アイヌの住居、数十棟を数えた。 松前藷は毎春勤番の藩士を派遣して漁場や山丹交易の監督をおこない,秋には引揚げるのが通例であった。8月末には謹かに越冬番人37人を残すばかりであった。 アイヌは僅かばかりの米,酒,煙草,古着のほか日用品を代償として酷使され、とくに漁場周辺のアイヌの立場は物品の貸付により殆んど負漬奴隷と化しつつあった。
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1801年
5月 第三回目の幕府調査。普請役を中村小市郎が務める。小市郎は東海岸をナイブツまで、隊員(小人目付)の高橋次太夫は西海岸をショウヤ崎まで検分。山丹交易事情などを報告。「樺太見分図」では、カラフトを大陸の半島、あるいは島と二通りを併記する。
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探索は南部にとどまり、北部については交易にきた東韃靼の山丹人に砂の上に地図を描かせて地勢を聞く程度だったという。
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1801年 近藤重蔵、「辺要分界図考」を発表。半島説と独立島説を併記。
1803年 間宮、国後をふくむ東蝦夷地の測量に従事する。05年には天文地理御用掛として蝦夷地日高のシツナイに勤務。06年からはエトロフ島に渡り、沿岸実測や新道開発に当る。
1804年(文化1) ロシア使節のニコライ・レザーノフが長崎に来航し通商をもとめる。幕府は通商を拒絶しレザーノフは事実上の幽閉状態に置かれる。(交渉時、レザーノフは樺太南部が日本人のものであるとの認識を示した)
1804年 イギリス人のブロートン、ドウ・ラ・ペルーズと同様のコースを探索。「北部太平洋探検航海記」で樺太が半島であると断定する。ラ・ペルー
ズ、ブロートンの探検により、サハリンと樺太が同一の半島であるとの説が流布する。
1804年 ロシアのクルーゼンシュテルン、ナデシュダ号で樺太探査。調査結果を「世界周航記」
として発表した。
樺太は黒竜江河口の南で大陸と接続している半島と判断。
1806年 「文化露寇」
10月22日(旧暦では9月11日) レザノフ、日本との通商を拒否された報復のため、フボストフに命じ久春古丹を襲撃。
ロシア兵約30名がボートで上陸。運上屋で米六百俵と雑貨を略奪し11の家屋を焼き、弁天社を焼き払い、焼け残った鳥居にロシア語を彫った真鍮板2枚を掲げた。魚網及び船に
も火を放ったあと海上に去る。その後択捉に回り幕府軍を攻撃。船を失った居留民は翌春まで藩との連絡が不能となった。 |
1807年
3月 幕府は西蝦夷地も公議御料とし、奉行所を箱館から松前に移す。
4月初め 久春古丹との連絡が取れ、松前藩および幕府はロシア軍襲撃の事実を知る。
4月16日 松前藩家老松前左膳と蝦夷地奉行新谷六左衛門、藩兵200人余を率いて福山を出発。5月12日に樺太上陸。
4月 フボストフ、択捉のナイホに上陸し沙那会所を襲撃・略奪。南部藩・津軽藩よりなる守備隊は敗走する。
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間宮はこのとき択捉勤務中で事件に遭遇した。逃亡罪で江戸送りとなるが、徹底抗戦を主張した事実が認められ、お咎めなし。
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5月 幕府、東北諸藩(津軽藩、南部藩、庄内藩、久保田藩)から3千の兵士を徴集(翌年には4千人に増強)。松前奉行の統括下で蝦夷地警備を命じる。クシュンコタンには南部藩が配置されることとなる。
5月22日 フボストフ、久春古丹の西隣の留多加に上陸。弁天社、運上屋、倉庫などを焼き払う。
6月 フボストフ、利尻島に上陸。島周囲の海域で日本船を襲撃。事件の後、会津藩士ら252名が利尻で警備にあたる。
12月 幕府、ロシア船打ち払い令を発す。
1808年 松田伝十郎と間宮林蔵の探検
間宮の著した「東韃地方紀行」で足跡をフォローする。
http://www1.tmtv.ne.jp/~hsh/D82-mamiyarinzou.htm

1808年 フボストフの行動は皇帝の許可を得ておらず、ロシア皇帝は撤退を命令した。これに伴い、蝦夷地に配置された諸藩の警護藩士も撤収。
4月1日 最上徳内、幕府よりカラフト詰を命じられ、シラヌシ到着。(この項未確認)
4月13日 第四回目の幕府調査。宗谷会所で調役下役をつとめる松田伝十郎が、カラフト奥地、山丹見分の命を受ける。松前奉行所は松田の下役として間宮林蔵を派遣する。
松田と間宮、シラヌシ到着。松田は西海岸を、間宮は東海岸を北上することとなる。
5月 間宮、多来加(タライカ)湖畔に到着。
間宮、シャクコタン(柵丹)まで進み、アイヌに舟を引かせて五町(545メートル)ほどの砂原を横断、北知床半島の東海岸に出る。そこでこれ以上の北上は困難と判断。(理由不明)
間宮、シャクコタンから再び南下し、最狭部である真縫(マーヌイ)から樺太山脈を山越えして、西岸(久春内)に出た。
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多来加湾地図 おそらく北船越というところで半島を横切ったのであろう。シャクコタンは可雁のことか?
柵丹は知取の近くの集落であり、だいぶ南のはずだが
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6月20日 西海岸を北上し、ノテトで先行する松田と合流した。ノテトは、スメレンクルと呼ばれているギリヤーク(ニヴフ)人の村落。近くにはオロッコ人も住んでいた。
松田と共に北緯52度、樺太最西端のラッカ岬に至る(一説にナッコ岬)。この岬以北で海峡幅が広がっていくのを望見。樺太が島であるという推測を得た。ここに「大日本国国境」の国境標を建てる。
6月26日 松田と間宮、ノテトをはなれ帰途につく。
7月13日 松田と間宮、宗谷に帰着。奉行所に報告。松田は江戸に報告のため出発。間宮は「樺太と大陸の境をしかと見極めぬずに帰えりしは心残り」
と述べ、さらに奥地への探索を願い出る。(一説に、宗谷滞在中の松前奉行河尻春之が、間宮林蔵の樺太東海岸調査は不十分として再調査を命じたとある)
7月 間宮、当局の許可を得て単身樺太へ戻る。図合船に便乗して宗谷を出発。西海岸のトンナイに至る。
トンナイは後の真岡とされているが、眞岡はアイヌ人からはエンルンコマナイと呼ばれ、厳密にはトンナイとは異なる。
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9月14日 間宮、トンナイからトッショカウまで進むが、時期的にこれ以上の北上は困難と判断しトンナイに戻る。
1808年 高橋景保、「北夷考証」を発表。松田伝十郎の報告をもとに、カラフトとサガリンを同一島とする。
1809年
1月29日 間宮、雇のアイヌたちとともにトンナイを出発。奥地へ向かう。ウショロで雪解けを待つ。
4月初め ウショロから陸路2日でリョナイに着き、船で北へ向かう。
4月9日 リョナイから255キロメートル北のノテトに到着。
5月12日 間宮林蔵、ノテトを出発。海路でラッカに達する。ノテトから北に98キロのユクタマーで、アムール河の河口を正面からながめる。さらに北進。
樺太北端に近いナニオー岬まで至り、北側に広大なオホーツク海が広がっていることから、樺太が半島ではなく島である事を確認した。(これをもって間宮海峡の発見とする見解がある)
6月 幕府、カラフトを「北蝦夷地」と唱えるべき旨を命じる。
6月26日 間宮林蔵、ノテトに戻る。ここで間宮海峡の対側の東韃靼に設けられた清国デレン仮府の存在を知る。
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酋長のコーニは清国仮府からカーシンタ(郷長)という役人の資格をあたえられていた。このとき貢物や交易品などを山丹船に積み込みデレンに向かう予定だった。間宮は随行を頼み同行を許される。
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6月26日 間宮、サンタン船でノテト崎を出発。6日をかけて対岸に到着。その後黒竜江を遡る。途中、言葉のわからぬ山丹人になぶり殺しにされかけたという。
7月11日 間宮林蔵、デレンに到着し清朝の現地責任者と会見。
清朝側の曰く、「我が国ロシアの少々の侵略は、そのままにしてとりあわず侵略やまざるにおよびて厳しく懲らしめけり。ロシアの堺は遠い北」と。
| 林蔵の記録によると、デレンは一辺25メートルほどの四角の敷地を二重の柵で囲い、中に清朝役人が毛皮を徴収する小屋があった。それを取り巻くように常時500人もの諸民族が集い、仮小屋に泊まりながら毛皮や食料などの物品を交換し、大いににぎわっていた。
とは言うものの、絵を見る限りかなり粗末な作りで、恒久的なものとは思えない。デレンは仮府を表わす一般名詞の可能性もある。 |
その後ノテトに戻る。(8月2日説もある)
9月15日 真宮、白主に戻る。さらに9月末には宗谷に入る。
11月 間宮、松前に帰投。松前奉行所に出頭し、以後報告書の作成にあたる。
1809年 松田伝十郎は白主にとどまり、アイヌを事実上日本人として扱い、樺太アイヌ保護の立場から山丹交易の改革を行った。
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彼は1.幕府の出費でアイヌのサンタン商人に対する負債を帳消しにして、2.白主での交易規則を定め、3.アイヌとサンタン人との私的な交易だった山丹交易を幕府公認の取引に変えた。(佐々木史郎講演)
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1811年2月 江戸にて『北蝦夷島地図』、『北夷分界余話』(ウィルタ、ニヴヒをふくむ樺太の地誌・民俗誌)、『東韃地方紀行』(黒竜江下流地方の見分)の三部作を完成、幕府に提出した。
1811年4月 松前奉行支配調役下役格に昇進。あらためて伊能忠敬から緯度測定法を学んだうえ、蝦夷地に向かう。
1822 10年におよぶ蝦夷地の測量を終え江戸に帰る。この時43歳。
1849年 ロシヤ海軍のネヴェリスコイ少佐、アムール河口およびタタール海峡で海洋船航行が可能であると発表。アムール河口から約40キロ上流の入江にニコラエフスク哨所を設置。ロシアでは間宮海峡の最狭部をネヴェリスコイ水道と呼ぶ。沿海州北緯49度附近のインベラートル湾(インペラートルスカヤ湾か)にも哨所を建設する。
ロシアの攻勢が急迫していないと知ると、幕府は蝦夷地を松前藩に返還し、以後40年間まったく省みようとしなかった。
松前藩も場所請負人(正確にはその支配人や番人)の裁量にまかせて運上金上納に満足し, 樺太の行政は顧みるところがなかった。 藩は毎年少数の勤番の藩士を夏期にのみ樺太へ派遣したにすぎない。これとて支配のためというよりは、むしろ独占的な山丹交易を管理するためであった。即ち,
アイヌから安値に買い上げた毛皮を,ギリヤーク人のもたらす満州渡来の蝦夷錦,虫巣玉,鷲羽などと交易し,その売却によって多額の収益をあげていたのである。
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1852年 ネヴェリスコイ、海軍大尉ボシニャークを北樺太調査に派遣。ボシニャークは良質の豊富な石炭層を発見する。
1853年(嘉永六年) ロシア軍の久春古丹占拠
以下の一連の経過は、主として秋月俊幸「嘉永年間ロシヤの久春古丹占拠」による。
1853年4月 アメリカの日本遠征計画を知ったロシヤ政府は、「サハリンがロシア領であることを事実をもって示す」ため、年内の樺太全島占領を決定する。占領と管理は「露米会社」(ダミー)の自己責任とされる。
4月 東部西シベリア総督のムラビヨフ、勅許を得てネヴェリスコイ海軍大佐に樺太占領を命じる。
4月 ネヴェリスコイを司令官とするロシア軍は、北樺太北端クエグト岬に露国旗を掲げ、領有を宣言。
6月 ペリーのアメリカ艦隊が浦賀に来航。開国を迫る。
7月18日 プチャーチン提督の4隻よりなるロシヤ艦隊が長崎に入港。
8月26日(露暦) ネヴェリスコイ、露米会社の「ユコライ」号に90名の兵員を乗せベトロフスク(カムチャッカのペトロパブロフスク?)を出発。ムラビヨフの禁を破り久春古丹の直接占領に向かう。
ネヴェリスコイは,政府の命令を樺太全島の占領命令と受取り,これを楯にムラヴィ
ヨフの指示に逆らった。この地が漁業や交易のため豊かな設備を有しながら何の防備もなく, しかも日本人が臆病であることを確信していた。
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8月22日(露暦で9月21日) ロシア兵40人余が4隻のボートで久春古丹北隣のバッコトマに上陸。大砲8門のほか大量の物資,建築資材,食料等が揚陸される。
8月23日 久春古丹南側の小高いところに日本人の倉庫を接収してムラヴィヨフ哨所が建設される。国旗を掲揚し樺太全島の領有を宣言。和人はすべて久春古丹を脱出し、宗谷に逃げる。
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ムラヴィヨフ哨所: 20間四方に兵舎、士官宿舎など5棟、風呂場、物見櫓(高さ6間、6角形、上の方で10畳)、穴蔵をつくり、柵をめぐらした。その堅固な作りは日本人を驚かせた。
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9月03日 久春古丹の番人たちは相談の上、夜になって全員が久春古丹を退去。一部が宗谷へ、一部が樺太西岸に移動。
9月12日 松前藩が宗谷勤番から事件の報告を受ける。直ちに幕府に報告の上、1番手85人、二番手77人を樺太に向け発進。
9月12日 松前藩、脱走者よりロシヤ人の久春古丹占拠の報を受ける。
9月17日 一番手85人,翌日に二番手77人の軍勢を樺太へ向け発進させる。異例の迅速な措置 実際は幕府の手前, 藩の体面をとりつくろったものとされる。
9月25日 ネヴェリスコイはロシアに戻り、陸軍少佐プッセ, 海軍中尉ルダノフスキーほか69人が久春古丹に残留。西岸に残留した番人は久春古丹に呼び戻され、軟禁状態に置かれる。
11月6日 樺太占領の報を受けた長崎のプチャーチン、老中宛に書簡。樺太分界の方針を変更し全島領者を主張する。
10月25日 松
前藩、年内の渡海を見送る。一番手は10月9日宗谷へ,二番手は10月10日益毛に到着したが,渡海はせずにそれぞれの場所で越冬する。「最早氷海に相
成,北蝦夷地へ渡海難相成 不得止事ソウヤ並マシケ南場所へ陣罷在,明春氷海明き次第渡海仕侯」と幕府に通知。
1854年
1月 幕府は樺太事情と境界調査のために海防掛・蝦夷地掛の村垣範正(通称 与三郎)と堀を松前並蝦夷地御用として派遣。
村垣は出発に際し「(樺太は)北方僻遠の離島にて,唐太の議は魯西亜え被遺侯ても可然哉」と樺太放棄を進言。 これに対し川路らは異論を提出。莫大な投資行なわれ,
制度も整い始め,余剰金さえ生じていた。その突然の松前藷への還付は,老中水野忠邦の独断により決定されたもので, これについては松前藩から多額の賄賂があったといわれている。 |
2月下旬 樺太から宗谷へ越年番人やアイヌたちの飛脚船が到来し久春古丹の状況を伝える。この頃ロシヤ守備隊に壊血病が猛威をふるい病人は40人に達する。
3月20日 松前藩の使者が藩兵に先立って樺太に渡る。漁場支配人清水平三部ほか60人の番人が同行。
4月11日 一番手85人が久春吉丹に到着。さらに3番手77人も久春古丹に上陸。
4月14日 日本役人4隻の日本船で久春古丹に入る。ムラヴィヨフ哨所を訪問し。ブッセと面会。亜庭湾上の両国境界について協議。
4月29日 インベラートル湾から軍艦オリヴツァが久春古丹に到着。シベリア司令官ムラヴィヨフは書簡を送り、ブッセを正式に樺太管理者に任じる。
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ムラビヨフはトルコとの開戦を伝え,英仏との開戦が近いとし、日本人との衝突を避けるよう指示。クリミア戦争が始まれば久春古丹が攻撃され、イギリス艦隊の餌食となると恐れたとされる。 これに対し直属上司ネヴェリスコイ少佐は樺太撤退を認めず、敵の攻撃の際は内陸へ撤退しゲリラ戦を戦えと指示。ただ、いまや正式の管理者となったブッセにとっては絶対的命令ではない。
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5月15日 プチャーチンの幕僚ポシェットを載せたメンシコフ号が長崎から久春古丹に入る。プチャーチンは、戦争が始まれば英仏艦船によるムラヴィヨフ哨所が攻撃される可能性があるとし、これを避けるためムラヴィヨフ哨所を撤収するよう提案。ブッセはこれを受諾。
プチャーチンは直接の上下関係にはなく、提案は「命令」ではなく、「条件付きの勧告」を行なったに過ぎない。しかし不利を痛感していた指揮官のプッセは、
士官会議にかけた上でこれを受諾した。
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5月18日 ロシア軍、約8ヶ月にわたる久春古丹占拠を終え撤退。
6月12日 堀,村垣一行が久春吉丹に到着。日露国境として好適な場所の調査に着手する。ムラヴィヨフ哨所の跡を視察したのち,シラヌシを経て西岸を北上。
6月末 一行は西岸のエンルモマコフまで到達。堀はさらにライチンカから東岸のマアヌイに移動し箱館に戻る。
| 堀,村垣より先に樺太に渡った幕臣の普請役鉄次郎ら、東岸を多来加まで調査。カシホ以北のアイヌは、これまでに日本人と接触していないと報告。支配勘定の上川田一郎らはアムール対岸まで足をのばし,ギワヤークの状況を調査。ヲッチシでロシヤ人が石炭を採掘していると報告 |
10月 村垣ら、江戸に帰府。「北蝦夷地御国彊見込之場所申上侯書付」を提出。
松前藩の支配が西岸はホロコタン,東岸はフヌプまで及んでいるとする。またこの地は「迚も警衛行届候筈無之」とし、樺太の国境問題や警備よりは,外国に開かれた箱館さえ何の備えもない北海道の防備の急務を説いた。 またアイヌの悲惨な状態と漁場の支配人や番人の非道さを口を極めて非難。このままではアイヌの帰趨は危ういと警告する。
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12月 下田で日露通好条約の交渉。ロシアは当初、亜庭湾周辺部のみを日本領とする提案。
1855年(安政2)
2月 日露通好条約が締結。日本は英仏の支持を得て混住地の確認を維持。樺太は所属を決めない国境未画定地、日露の雑居地域となる。
4月 イギリス、樺太の支配を狙い、艦隊を久春古丹に送る。イギリス艦隊の陸戦隊が久春古丹河辺に上陸。
4月 秋田の佐竹藩が,樺太の防衛にあたる。万延元年以後は東北4藩が2藩づつ交代で警備にあたる。幕府はアイヌの慰撫に務める。
5月 松前藩、幕府の命により久春古丹のロシア軍基地を焼却。
55年 堀,村垣の報告にもとづき,幕府は北海道と樺太を再び直轄し,彼らはともに箱館奉行としてこれらの地方の行政にあたる。
1856年
5月 松浦武四郎、新道建設予定路の調査を命じられ白主着、その後、東海岸の敷香(シスカ)に至る。
56年 幕府、樺太東岸の中知床岬以北および西岸のノタサン以北を樺太直捌場所とする。
1857年(安政4年)
6月 ムラヴィヨフ哨所の元副隊長ルダノブスキーが率いるロシア兵、ロシア船「アメリカ」号で進出。日本勢力の北限となっていた西海岸のナヨロ、久春内に上陸。兵士16人で日本側官吏および住民を拘束する。アイヌの支持が得られず、まもなく帰国する。
57年 越後の豪農で、蝦夷地御用方をつとめる松川弁之助が、カラフト奥地漁場開発を出願。東岸のオチョポカ(落帆)の漁場差配人を命じられる。
1858年
5月 ロシアは黒龍江一帯に侵攻し、清国との間に「愛琿条約」を結ぶ。
58年 江戸に赴いたロシアのムラビョフ代表、清国から割譲された黒龍江流域に付属するものとして、樺太全土の領有を主張。
58年 幕府は越前大野藩に北蝦夷地警備と開拓を命じる。久春内周辺はこれとは別に箱館奉行石狩役所の直捌場所となる。
1859年 ロシアは艦隊を率いて品川に現れ、
樺太全島をロシア領とする境界策定を請求。幕府はこれを拒否する。
1860年 ロシア、清国の内乱に乗じて圧力をかけ、「沿海州専用に関する条約」(北京条約という)を結び、山靼地方・沿海州の全てを領有する。以後、樺太は沿海州(プリモルスキー)の付属地であるとの立場から、警備兵や囚人を送り込むなど攻勢を強める。
1861年 ロシア艦ポサドニック号が対馬芋崎浦を占拠。箱館奉行となった村垣範正がロシア側との対応にあたる。
1866年 ロシア、クシュンナイ哨所とマアヌイ哨所を強化し、東海岸のナイブチにも新しい哨所を建設。
1867年(慶應3)
3月
函館奉行小出大和守がロシアに派遣され、領土交渉。北緯50度線を国境とする提案を行うが、ロシアは久春内での分界を主張。結局これまで通り雑居地とする「樺太島仮規則」を調印。
1868年 明治新政府、岡本監輔ら十数名の官吏と箱館で募集した農工民二百余名ををクシュンコタンに送り、公儀所を設置する。それまで旧幕府・松前藩は樺太を漁業基地としか見ていなかった。
1869年 明治新政府、北蝦夷地を樺太と改称する。北海道開拓使が管理する。
1869年 ロシア、明治政府の出方を見て樺太の軍備を増強。コルサコフ哨所、チフメンスキ-哨所などが設営される。
1870年2月 樺太開拓使が開拓使から分離して、久春古丹に開設される。黒田清隆を開拓次官とする。
トンナイ、シララカ、白主に出張所が置かれる。
| 久春古丹の北方にハツコトマリ(小港)、南方にポロアントマリ(大港)が発展。ポロアントマリが大泊の名の元になる。久春古丹は楠渓町、ポロアントマリは栄町となる。 |
1871年 樺太開拓使が閉鎖され、北海道と合併。久春古丹に公議所をおき開拓使樺太支庁とした。
1873年(明治6年) 副島種臣がロシアと樺太買収の会談をするも不調に終わる。
1874年 黒田清隆、樺太は無価値である旨政府に報告する。
1875年(明治8年)5月 「千島・樺太交換条約」を締結。樺太全島がロシア領となる。久春古丹の開拓使樺太支庁はコルサコフ日本領事館に業務を引き継ぐ。
1875年 千島樺太交換条約の締結後、日本人は日本国籍のまま樺太に住み続けることが許されたが、先住民族はロシア国籍の取得を義務付けられた。
10月 樺太アイヌ854名、北海道への移住のためクシュンコタンを出発。以下の経過は主としてrutke アイヌの歴史・文化など より 樺太アイヌの強制移住による。
樺太南部に住んでいたアイヌ(推定約2200人)のうち、841名が北海道に移り住むことになる。いったん宗谷(稚内市)に移り住む。
榎本武揚、「ロシアは、流刑者を石炭採掘に従事させている。日本でも移住した樺太アイヌにそれをやらせればいい」と提案。
開拓使、宗谷に移住した樺太アイヌを江別に強制移住させる。
黒田閣下の特権を以って石狩河上に移す。而して其移すや閣下六等出仕鈴木大亮に命じ、玄武丸に
乗らしめ小樽に航して、札幌の巡査三十人を率い、皆銃を携へしめ、小樽港より宗谷沖に迂回して艀船若干隻を海岸に繋ぐ、樺太移民皆愕然として狼狽し山林に
遁れんと欲すれば、三十人の巡査銃砲を向けて土人を恐迫
す。然して玄武丸大砲の空砲を沖に放つ、囂々然として炮声山河に響く。樺太の移民、匍匐合掌して震慄せざる者無
し。
…樺太移住土人を脅迫し船に乗らしめ、小樽に上陸せしめたるに、此時酋長此兵衛は小樽にて血を吐きて死す。是に於て判官辞職の決意す。 |